Anthony David exclusive interview アンソニー・デヴィッド特別独占インタビュー
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Anthony
David exclusive
interview
Interview & Text by
jun ide
取材協力: Yayoi Ozawa@Cotton Club,Matamura@Village Again.
●もともとジョージア州サバンナ出身ですが、少年時代はどんな音楽を聴いて育ったんですか?
少年時代は父親のレコードコレクションから音楽的な影響を受けた。 ダニ−・ハサウエイ、スティーヴィー・ワンダー、アレサ・フランクリン、 アニータ・ベーカーとか、ソウルミュージック、R&Bを中心としたものから、
色々なタイプのヒップホップも良く聴いた。
そして良く本を読み、自分で詩を書いたりしていた。 高校時代にはマーチングバンドでスネアドラムを叩いていたんだ。 当時は音楽を聴く事は好きだったが、歌ったりするような事はなかった。
ティーンエージャーの頃は、いつもヒップホップを聴き、 ヒップホップダンスもやっていた。 当時アニータ・ベーカーとかのソウルミュージックがすごく好きだった。その中でも”Sweet
love”が一番大好きな曲で本当に良く聴いていた。 当時その曲を聴きながら、彼女の声の上に自分の声をのせて 歌っていたのを覚えている。
ちょっとだけドラムを叩いたり、キーボードとか適当に弾く事は出来る。 そしてギターは少しだけ弾ける程度で、実際は全然楽器は弾かないんだ。
●どんな経緯で、音楽でやって行こうと決心したんですか?
どの時点だろうな? まだアトランタに移り住んだばかりの頃だったと思うが、 たまたまアトランタのライブハウスに行った時、才能あるアーティストがステージで
プレイしていて、すごく良いヴァイブを感じて、 そのフィーリングを共有出来てすごく興奮したんだ。その時に自分もいつも こういう空気に触れていたいという気持ちが高まったんだ。
当時インディアと出会ったり、他のグループのEl Pusというロックバンド など、色々な人たちと関わり合いを持ちながら、その時こういう環境の中に
居続けたいという気持ちが高まって行ったんだ。
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Early stage development
●インディア・アリ−との出逢いについて
90年初頭に兵役が終わりアトランタへ移り住んで来て、 一番最初にアトランタで出逢った人がインディア・アリーだった。 自分が車を降りた時にたまたま彼女が通りかかって、クールな感じの女性
だったから、ちょっと声をかけて以来、3年くらいハングアウトするよう になったんだ。我々は同じタイプの音楽をシェアしていて、一緒に歌いたい
という気持ちはあったのだけれども、それが中々実現しないでいた。 それぞれポエトリーをやっていたりしていて、最終的にはお互い分り合えるように
なり、そこから一緒に音楽活動をするようになったんだ。
そして"Part of my life"は、自分が作詞した一番最初のデモ曲だった。 共同プロデューサーでもあり、アーティストでもあったeddie
stokeと ジプシー達と一緒に創ったんだ。基本的にジプシーが、自分にリリック を書く様に仕向けてくれ、彼が自分の最初のデモをプロデュースしてくれたんだ。
この時点では、インディアも彼女の1stアルバムをモータウンで制作中だった。 自分はいくつかの詞を書いていたんだけど、曲としては作っていなかった。
マーク・バーソンが彼女のアルバムをプロデュースしていて、 インディアが自分にスタジオに来て欲しいと連絡をくれたんだ。 その時マークと初めて会って、彼が自分に何か歌って欲しいと言って来た。
そして自分のオリジナルであった"Part of my life"を歌ったんだ。 そこにすぐ彼はビートを打ち込んで行って、曲に仕上げて行ったんだ。
彼女は、少しアップビートな曲にしたいというリクエストを出し、彼女の アルバムにマッチするように仕上げて行ったんだ。本当に良い曲だと思う。
それが "Part of my life"が出来たキッカケだった。
●プロとして活動してゆくなかでの、ターニングポイントについて
自分にとって"Part of my life"はジプシーと一緒にやった 一番最初のデモになるんだけど、その頃から自分はソロアーティストとして
活動しようと決心していた。自分はライターであり、アーティストでも あって、沢山の曲を書き溜めていたから、他の人たちといつでも曲に落とし込む
準備があった。 その当時、インディアとも一緒に活動もしていたし、自分は常に他の アーティスト達とコラボレーションしながら、自分自身の活動をやっていた。
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●2004年にファーストアルバム"Three Chords and the Truth(VillageAgain)"をリリースしましたが、コンセプトについて教えてください。
実際に自分は彼女が1stをリリースした後、一時期インディアとのツアーする事を やめた時があった。 2ndアルバムの時にも、彼女に"バタフライ"という詞を書いてあげた。
ツアーをやめた理由は、El Pusというバンドのレコーディングがあったからなんだ。 このバンドではギターを弾いていて、L.Aに行ってアルバムをレコーディングしていたんだけど、
バージンレコードは契約に時間が係り過ぎていた。 その間、自分はインディアとのツアーで稼いだお金とEl Pusとの契約のお金で、 自分自身のスタジオを自宅に作り、自分の音楽を創り始め、より多くの曲を
プロデュースする事が出来るようになった。 リチャード・ダンという自分のマネージャーと一緒に音楽を創るようになり、 彼のコネクションを上手く使いながら、ブラッシュミュージックの人とか、
自分の音楽に興味を持ってくれた。 そして自分はインディアの前座として、ツアーに戻ったんだ。 その当時は小さなEPがあって、いくつかレコーディングした曲を収録していた。
そのEPが結構良い感じで売れていて、ブラッシュの人が、それを見て 我々はアルバムを創った方がいいという事になって、ほとんどがギター中心の
弾き語りのものなんだけど、我々はチームを作り制作に取りかかった。 そしてEl Pusはまだアルバム制作は進んで居無い状態だったから、自分は
El Pusとのディールから降り、El Pusがレコードをリリースする前に, "Three Chords and the Truth"をリリースした。本当にメジャーレーベルの動きは
遅いんだ(笑)
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●2006年に、第2作目である" Red Clay Chronicles"をリリースしましたが、どんなインスピレーションで創ったのでしょうか?
1stアルバムの"Three Chords and the Truth"では、 アコースティックサウンドを中心としたものだったんだ。
実際Georgia Peachの1曲だけのぞいて、その曲自体も別にアコースティック バージョンも作った。ギターで作曲したものだったけど、テーマがすごくよかった。
そして今作アルバムではヒップホップ、R&Bとか、自分自身のルーツを入れ、 自分の曲のファンデーションにビーツが入る事によって、1stとは嗜好を変えたんだ。
1stアルバムでは、ビーツとかはあまり入れたく無かった。 前作はマーカス・ジェファーソンがプロデュースしたんだけど、 我々は行ったり来たりしながらやっていたんだ。
俺はバックグラウンドボーカルとか入れてやりたかったんだけど、 彼は自分がバックグラウンドボーカルをやるように仕向けてくれ、 曲のファンデーションを作ってくれた。
今作ではもっとビーツをいれ、バックグラウンドをいれたものにしたくて、 バンドとしてもプレイ出来るような、より大きなものを導きだすようにしたかった。
そしてブランデン・バーチや他のアトランタシーンのセッションミュージシャン達 と一緒になり" Red Clay Chronicles"を創ったんだ。
" Red Clay Chronicles"の意味は、我々はアトランタの街で" Red Clay"
の上に 住んで居て、地面を掘り下げると赤土がでてくるでしょ、あれが" Red Clay" なんだ。 アトランタのソウルシーンはそれほどショーケースとして大きくなかったが、
インディアが本当に良い仕事をしてくれたお陰で良い感じになってきている。 良いプレイヤー、プロデューサをアルバムに参加してもらって、本当に沢山の人を巻き込んでこの作品を作ったんだ。
そして"Chronicles"は時間という意味で、そこにはクリエイティビティもあるんだ。 クリス・ジョンソンが、いくつかプロデュースしてくれたり、ブランデン・バーチとか、
この作品は沢山の人々の努力の賜物なんだ。それにRクルーも参加してもらっている。
●アルバム制作における、チャレンジとは?
ただ多くの人々に参加してもらうために、クレジットの調整とか色々と大変だった。 ミックスダウンが上手く行くかどうかも色々大変だったが、 ブランデンがその辺を上手く調整してくれたと思う。
インディペンデントの予算範囲内で、上質なものを作り出す事は本当に大変だよ。 それをメジャーレーベルのアルバムと同等レベルで競争する事は大変なんだ。
本来メージャー級のアルバムを作るには本当に予算がかかって大変だけど、 俺にはそれが無いから、出来る限りの努力をして、同等のものに仕上げて行くんだ。
常に予算とのチャレンジなんだけど、我々は成し遂げることができたんだ。
●今作の中でどの曲が一番思い入れが強いですか?
それは自分自身の気分によるけど、その中ではSmoke One (with Earl Klugh)を、 気に入っている。"Something
About You"、"Better Than I really like"とか、 本当にその時の気分によって好きな曲も変わってくるんだ。
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●自身の音楽を創る上で、一番大切な事とは?
ムードとマッチする事が一番大切な事だと思う。そのムードとピッタリな 感覚のものなんだ。例えば、Something About Youとかは、たまたま友人と話しをしていた時に、
シカゴとか、いくつかのミッドウエストの街では、人々がストリートダンスをしていたり、 シカゴでは、ステップダンスとか、彼らのダンススタイルで、その時の自分の気分にもよるけど、
時々そのムードとかによっては、自分もそのフィーリングを共有したいという気持ちになったりする。 そして、自分もそこへ自分の曲で貢献してみたいと思うんだ。
デトロイトのソウルとか、それにBetter Than I really likeとかは、どこかのナイトクラブとかでも マッチしそうな感じがするんだ。
あと、"On & On"とかはムードがあって、ボサノバっぽい曲調ですごく良い感じだよ。 そしてKin Folkとかは、ファミリーリユニオンを歌っていて、そこにはスナップリズムがあって、
すべてはムードとヴァイブに関わることなんだ。 どんなムードに自分がいても、違うヴァイブとかも感じながら、自分が何かを感じたら、 何かそのムードにマッチしたメッセージを言って、会話を継続させて行きたいんだ。
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●次ぎのプランについて教えてください。
いま頭の中では、いくつかのプロジェクトアイディアがあるんだ。 その中のひとつは、”ブロード”というタイトルのプロジェクトで、 今まで色々な街で出会った何人かのプロデューサーと一緒にアルバム
制作をしていて、色々とインスパイアされるんだ。 特に最近インターネットが発達して、そこにはコミュニティーがあり、 自分が違う世界の街に住んでいても、そんな事は関係ないんだ。
日本に住んでいる人でソウルミュージックが好きだったり、 ヒップホップが好きだったり、それにコペンハーゲンにいる人、 スエーデンにいる人がソウルミュージックが好きだったりして、
そこに本当に沢山のアーティストやプロデューサーが良い音楽を提供し続けているんだ。自分はアムステルダム、ストックホルム、 パリなどのプロデューサー達ともコラボレーションをしているんだ。
それにエリック・ロバーソンとも、色々とアイディアを考えているんだ。 次作では 自分の目指すところを、表現してみたいんだ。
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●How does music make
U feel? situation like
すごく心地良いフィーリングだと思うよ。すごく説明するのが 難しいけど、人によっては音楽自体が、何かを変えるような パワーを信じている人もいたり、宗教じみたエクスペリエンスだったり・・
そういう事も分らなくは無いが・・・音楽を感じるという事は、 ほとんどが無形で平和なフィーリングだと思う。 もし誰かが何かを表現した時とか、もし自分が以前表現出来た事と
経験が共有出来れば、そのフィーリングへ連れて行って貰えるかもしれない。 そういう風な事を求めているかもしれない。。 自分は音楽を通して、あなたとここにいる。あなたはひとりでなく
皆と良いフィーリングを共有しているんだ。 それは奥深いフィーリングでもなければ、浅いフィーリングでもないと思う。 自分が音楽を感じ取る時に分るはずだから。
●日本のファンの皆様へメッセージをどうぞ!
日本のファンの皆さん、自分の音楽を聴いてサポートしてくれて、 どうもありがとう。 皆と音楽を通してコネクションしたいんだ。 世界共通のユニバーサルコミュニティの中で、
それぞれの違うバックグラウンドでも、音楽を共有したいんだ。 そこから色々な事を学び、そして何かを教えあいたいたい。そのために 自分は生きていると思う。実際には同じ言語を話せないかもしれないが、
音楽を通じて、同じ言語を話しているようになりたいんだ。
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●アンソニー・デヴィッド Official
site
アンソニー・デヴィッドは、60年代から70年代に傾聴されたソウル・ミュージックの大きな影響を受け、同時にMadlibなどのJazzテイストのあるHip Hopやアフリカン・ミュージックにも感化され、それを自らのギター、声を通して表現しているアトランタのシンガー・ソングライターである。
アンソニー・デヴィッドは、ジョージア州サバンナからアトランタに移り住んでから、現在へと続く音楽キャリアをスタートさせた。そこで彼は才能溢れる(まだデビュー前の)インディア・アリーと出会い、意気投合することとなる。
「インディアは私がアトランタに着いて初めて出会ったうちのひとりで、地下鉄にいた彼女のルックスが余りにクールだったから、話かけてみるとお互いにアーティストだった事が分かって、お互いに曲を聞かせあったりする様になったんだ。」
この頃、彼は自分の声に自信がもてなくなっていて、詞を書く事に専念していたが、インディアは、彼にソング・ライティングのためにギターをプレイする事を助言する。
「インディアがギターを弾き続けていたので、私は、1台譲ってもらって、とりあえずプレイしたみたんだ。」 デヴィッドはギターで曲を作り始める事となり、そのうちの1曲、「パート・オブ・マイ・ライフ」をインディアに贈った。その「パート・オブ・マイ・ライフ」はインディアのデビュー作『アコースティック・ソウル』に収録され、2002年のグラミー賞の7部門にノミネートされる事となった。
そして、アンソニーがシンガーとして歌い始めるきっかけが訪れる。ある日、ビル・ウィザースの歌を聞いた彼は、自分の中に"歌いたい"というインスピレーションが沸き出てくるのを感じたという。そして彼は声を出し、歌い始めた。そこで自分の声のストライドが、アニタ・ベイカーの歌の様に深みを帯びている事に気がついたのである。
デビューアルバム「3 Chords & The Truth」で、アンソニーはメロディックでグルーヴィなアコースティック・ギターを弾きながら、詞をゆったりと歌いあげる。「私はいつも何かクリエイティヴな事を模索しているんだ。そしていつも色々なストーリーを書いているんだ。」と、デヴィッドは語っている。
このアルバムで彼はオーガニックソウル、フォーク、ブルース、レゲエなどのルーツ・ミュージックの影響を隠す事なく貧欲に吸収し、そこに素晴らしいメロディーに与える事に情熱を傾けた。その成果が、「3
Chords & The Truth」の14曲となっている。「良い歌を作り出すためは、3コードと真実だけが必要だというけれど、私は
"真実"をベースに作り上げたんだ。だからこのアルバムは非常に誠実な作品だといえると思うよ。」 「3 Chords &
The Truth」はミュージシャンを中心に大きな支持を得ることとなり、アンソニーの評価はUK,そしてNY、そして日本と世界的なものとなる。
そして 本人みずから会心作というニュー・アルバム「Red Clay Chronicles」には盟友インディア・アリーやアール・クルーがゲストとして参加し、よりミュージシャン、ヴォーカリストとしてスケールの成長を物語る作品となっている。
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[取材協力:Cotton
Club, Village Again/
Interviewed & Text by Jun Ide]
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