マルコス・スザーノ(Marcos
Suzano)インタビュー
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マルコス・スザーノ(Marcos
Suzano) インタビュー
Interview & Text by
jun ide
取材協力:TOYONO
Early development
●そもそもご自身はリオ・デ・ジャネイロ出身で、14才の頃からサンバに惹かれてパーカッションを始めたそうですが、音楽にのめり込んで行ったキッカケについてお聞かせください。
僕が14才になった頃サンバに強く惹かれてパーカッションを叩きはじめた。のちにショーロというブラジリアン・ジャズのような音楽に興味を持ちプレイし始めた。それは自分にとってすごく重要な経験だった。僕が結成したショーロのグループは
すごく良いバンドで、ブラジル国内でおこなわれたショーロミュージック コンテストで入賞したこともあった。なぜなら我々はすごく面白い曲をプレイし、それぞれ違った構成の曲を披露したからなんだ。
それがキッカケとなってパウロ・モウラとかショーロミュージック出身の色々なアーティスト達と演奏し始めた。
そしてある日、彼からプロジェクトに参加して欲しいと オファーがあった。その内容はヴィラ=ロボスのショーロのアレンジメントだった。 まず僕はアダモプリンスという音楽学校で楽譜を学ぶ事をはじめたんだ。そこには
すごく良い教授やインストラクターがいたからレッスン内容はとても充実していた。 そのクラスを受けた後は自分にとって、スタジオレコーディングが、
とてもやり易くなっていった。あの時本当に楽譜の読み方を習って良かったと思う。 マエストロが自分に楽譜を手渡して演ってみてと言うや否や、楽譜の通り
即演奏が出来るようになったんだ。 ブラジルで活動している沢山のパーカッションプレイヤーの殆どが楽譜を よめないんだけど、彼らは、よりルーツに近いところにいると思う。
その当時僕は本当に沢山の良い音楽をよく聴いたんだ。今僕の中にあるインスピレーションは 様々なアーティストが作った音楽からも沢山受けていると思う。
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●独自のサウンドをパンデイロの表皮を緩める事によって産み出しましたが、当時どんな
経緯で始めたのでしょうか?
このアイディアは僕が別に結成していた”アクアレラ・カリオカ”という グループで、80年代〜90年代中盤にはすごく重要なバンドとしてブラジルを中心に
活動していた。のちにある理由で自分はグループを脱退しなければならなかった。 バンドを脱退した理由は、バンド全体のサウンドにすごくアンバランスな感じが出ていたからなんだ。
楽器の構成はチェロ、サックス、フルート、パーカッション、エレクトロニックベース、ギターという、半分エレクトロニック、もう半分はアコースティックだった。
その中でエレクトロニックギターのサウンドは、演奏時にオーバードライブやハードコンプレッションを大音量でやった時はすごく良い音を出すんだけれども、だんだんとプレイして行くうちに何かが違う、ノットグッドと感じ、バンド全体にバランス感覚がなってなかったからなんだ。そのギターリストのパウリーニョがいつも自分の音はひとりだけ浮いてて、遠い感じがするって文句をいってた。
そしてある日のこと、我々は午後街で沢山のバンドグループ達といっしょにライブをすることがあって、そのステージで4曲プレイすることになった。 でも機材なんかの設定を一切やっている時間がなかったから、僕は小さなマイクロフォンを使って、パンデイロに付けてみたんだ。いつもはタンバ、コンガなどの沢山のパーカッションでプレイしていた曲をパンデイロでやったら、その結果すごくエクセレントな音を出したんだ。その時に今までの事は忘れて、マイウエイで行こう強く思った。その後エンジニアと、新しい曲のアイディアをスタジオでつめている時に、パンデイロのプロスペクティブを
高音〜低音へとファイナルミックス段階で、少し変化させてみようと思ったんだ。 僕のプレイのダイナミクスを生かすためには、絶対に音を変えなければいけないと思っていた。
そもそも僕は伝統的なサンバスタイルでパンデイロをプレイする訳では無いし、自分のスタイルでやってみたいと思っていた。 基本的に ブラジリアン・ミュージシャンは、すごくクリエイティブだけど、そのなかには、メロディとハーモニーのセンスに少し問題があるんではと思う。リズム感に関しては彼らは本当に素晴らしいと思う。ハーモニーやメロディーは、楽譜よりも重要だと思うが、
楽譜の方がもっと重要だと言う人もいる。楽譜は弾き手にバックグラウンドを要求する。 コードを作り、メロディーを作りながらして、時々コ−ドがすごくヘビィに感じられたり、
インテンシティが必要だったり、楽譜に記述したりして曲を作って行くんだ。
※パンデイロ(タンバリン型のサンバ楽器)
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続き〜
そして僕はそれぞれの音のリレーションを表現する上で、 ミキシングの順番を代えてみたり、それぞれの楽器の音をチューニングしてみたりしてみたり、
それと僕のパンデイロに、ヘビィなゴートスキン(山羊革)を張って工夫したりの様々な試みをしたんだ。結果、現在のような低音チューニングでのサウンドに進化させたんだ。
それに音の本質を研究する上でレゲエを良く聴いていたよ。あとジャズでは マイルス・デイビス、アル・フォースター、スティーブ・コプラン、ゾンボーハン
なんかを良くレコードで聴きながら、そのレコードの上からパンデイロで リズムを指の腹で取りながら研究したんだ。僕がビートを紡ぎ出して行くなかですごく重要な事なんだけど、伝統的なサンバスタイルと根本的に奏法スタイルが違うんだ。
通常パンデイロを叩くときには、リスト側〜指のトップへとリズムと取りはじめるんだけど、僕のやり方は右手の指のトップからリストへ掛けてリズムをとることによって、バックビートが作られるんだ。それはその時のタイミングや手の位置によって、柔軟にリズムの取り方を変えて行く。そこにパンデイロを支えている左手でパンデイロを揺らす事によって、ジングル(パンデイロ本体についている小さなシンバル)が激しくリズムを刻み始めて行くと、両手が完璧にシンクロする。これが僕が造り出した基本的なリズムパターンチェンジのタイミングの取り方なんだ。
最近では沢山の子供達や大人達が僕のパンデイロプレイに対して、すごく リスペクトしはじめたんだ。そのやり方がたんなるジョークでないことが分かったからだと思う。
最初の頃は沢山の人が僕の事を気狂いあつかいしたよ、エンジニアとかにも、ドラムをたたけばいいとか言われたしね。それに対して自分はドラムを叩く必要ないし、僕はパンデイロだけで十分だと思っている。当時のエンジニア達はすごくコンサバティブで、ニュージェネレーション達がユニークで新しいサウンド造り出して行っている事に対して、脅迫観念があったようだ。
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Mid stage development
●パウロ・モウラ(Paulo Moura/クラリネット)との出会い、
そして彼のグループでの経験について
パウロ・モウラと出会ったのをキッカケに彼のグループの ”オセラドセ”に誘われたんだ。すごく重要な出来事だった。 それからカルロス・ネグレイドス(Carlos
Negreiros/perc)やアレックス・メイレーリス(Alex Meirelles/piano)とも出会った。彼らは僕にとってアフロ・ブラジリアンミュージック界でのマスターのような存在なんだ。
そして気がついたら、殆どの僕の音楽はアフロ的要素を沢山含む音楽になっていった。僕はすごくラディカルに新しい音楽に入り込んでいった。それから長い年月をかけて数々のレコーディングに参加していた。彼らのレコーディングとかでは、僕はすごくヘビィなバックグラウンドのものをアフロ的要素を含んだ音楽の中で使うんだ。
その手法が僕にいままでと全く違うアプローチを与えてくれたんだ。 アフロ・ブラジリアン・パーカッションのロジックは、すごくシンプルで簡単に理解出来る。
基本的には3つのフリクエンシーが、ハイ、ミドル、ローとある。しかしローフリクエンシーにある、低音のドラムが、ダンス、メロディの中に馴染み易く、インタラクト出来て、他の楽器とかと比べて一番相性が良い。だからそこにすごくフリーダムを感じられる。
それは自分がどれだけの情報を得て、どうやってきちんと正しいフィーリングかどうかも確かめ、どうやって他のミュージッシャンとも関係を演奏している瞬間に気付いていけるか?
を意識することが大切だと思う。
パウロ・モウラは、自身の音楽の中にフリーダムを持ち込んで来た。僕にとって彼はマイルス・デイビスの様な存在でもある。 当時我々は色々なライブに参加していたんだけど、ライブの前日に
彼が新しい曲をプレイしようと言い出した。明日のライブは難しいんじゃないかと思ったが、自分らは複雑な構成の曲とかも演奏したこともあり、彼が心配しなくていい、”ルックアットミー”と言って、バンドメンバー全員で彼の方をみて、即興プレイをはじめたんだ。すごく気狂いじみていたけど、それがすごく興奮する程のもので、本当に思い掛けない事だった。彼は本当に僕にとってのマスターだと思っている。
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●後に、Lenine(レニーニ)と共作『オーリョ・ジ・ペイシェ(魚眼)』
をリリースされましたが、アルバム制作のエピソ−ドについてお聞かせ下さい。
僕にとってジョーン・バエズと一緒に作った「Play Me Backwards」は、世界的にリリースした、すごく重要な作品のひとつでもあった。
その作品を通じて出会ったニューヨーク出身のジンボというエンジニアが、「オーリョ・ジ・ペイシェ」をミックスしてくれ、そののちに僕のアルバムのエンジニアにもなってくれたんだ。
レニーニの作った曲は、どれも良い曲ばかりだと思う。それゆえ彼の曲は他のアーティスト達によってもプレイされ、レコーディングもされていた。
ある日レニーニが、僕の家へ遊びに来た事があって、ずっと午後の間プレイしつづけてたんだ。その間ずっと録音をしていて、それがなかなか良い感じに収録それていたから、
我々のエンジニアに連絡をして、この事を話をしたら結果的に彼のスタジオを使ってその音源を調整する事になったんだ。そしてレニーニが僕にこの作品をリリースしようと持ちかけて来たから、僕はすぐにそれを承諾したんだ。
すぐに資金を入れて、その作品にアレンジメントを加えレコーディングに取り組んだ。 そしてファイナルミックスの段階になって、ニューヨークの
スタジオでジンボにミックスを依頼したらどうか、と僕が提案したんだ。
レコーディングの最終段階では、全く違う環境で、違う耳をもった人にやってもらった方が良いと思ったんだ。それが我々のブラジリアンエンジニアとは、違ったプロスペクティブで良いものに仕上がって行くと思った。レニーニもそのアイディアに賛成で、この作品を通して色々と学んでみたいから、是非ニューヨークへ行こうって言ってくれた。多分、他のエンジニアに依頼するのだったら僕の提案に反対していただろうが、レニーニも快諾してくれた。その後ニューヨークのスタジオへ行くと、そこは尊厳を感じるような
信じられないくらいのビンテージスタジオで、コンソール、ハイエンドの機器類などがセットアップされていた。 そしてエンジニアのジンボが我々のテープを聞きはじめたら、すごくハッピーになってきて、これはすごいサウンドだと言ってくれた。
これは良い感じでミックスが出来るよといって、さっそくファイナルミックスを開始してくれたんだ。
そしてマスタリングが無事終了して、それを持ってブラジルに帰ったんだけど、 どこのレーベルでもリリースに興味を示してくれなかった。(笑)基本的にブラジリアン
レーベルはどこも酷いし、存在価値が全くないからいいんだけれども(笑)その中でも 一社だけは、リリースしたいと言って来てやらしてみたら、あまり良い仕事をしてくれなかったから、2年で契約を打ち切って、自分達に権利を返却してもらって、自分達でリリースして、プロモーション、セールスをやった。それ以後12年以上も「オーリョ・ジ・ペイシェ」を世界中でセールスしているよ。この作品は永遠に沢山の人たちに支持されつづけられて行くだろう。
もともとこの作品はアコースティックギターとパーカッションをベースにしたものだったが、 僕が影響を受けたアフロ的なものを理解して、フィードバックして行くうちに、レニーニのグルーヴィなギターと演奏するのが、とてもやり易くなっていったんだ。レニーニは我々のプレイ自体にすごくショックを受けたようだった。これがすごく良い流れとなって、ニューヨーク、日本とあちこちでプレイするようになっていった。レニーニ自身はブラジルを代表する
シンガー、ギターリスト、コンポーザとして支持され続け、僕の持っているものと掛け合わせて、違ったスタイルの曲をどんどんと作りだしていったんだ。とにかく「オーリョ・ジ・ペイシェ」は、僕にとってすごく重要なアルバムだよ。
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●1996年には、一番最初のソロアルバム
"SAMBA TOWN"をリリースし、ベストブラジリアン・ディスクとして 輝かしいセールスを収めましたが、アルバムのコンセプト、エピソ−ドについてお聞かせ下さい。
僕の友人であるジョアン・マリオ・リニャーリスが、エグゼクティブプロデューサとして この作品をプロデュースしたんだけど、ある日彼が、僕に向かって
僕の作品をレコーディングしたいと言ってくれたんだ。僕自身も レコーディングするバジェットがあったし、アイディアもあったし、 やってもいいと思った。僕が持っていたアイディアとは、シコ・サイエンスが作った
マンギタウンからすごくインスパイアされたもので、すごく都会的なテイストをもった音楽。 アフロ的なルーツを持ち、とても強いバックビートを持ったものだった。
そして僕のパンディロで作り出すグルーヴを、友人が作った大好きな曲の裏側においてみた。 カルロス・ネグレイドス(Carlos Negreiros/perc)、パウロ・ムイラート(Paulo
Muylaert/guitr)、アレックス・メイレーリス(Alex Meirelles/piano)、レニーニ、パウロ・モウラ、そして自分の曲とかに色々と試してみたりした。そして僕の音楽仲間達のテイストを取り込んだものにしたかった。
”サンバタウン”を構想している時に紙上にステップ・バイ・ステップで色々と書いてみたんだ。 バジェット上の都合でスタジオとかに入って、バンド編成で、大きなリハーサルとかやる余裕は無かったから、パンデイロのパートを先にレコーディングしてから、ベーシスト、キーボーディスト達に連絡してスタジオ入りしてもらい、ベースとキーボードのパートを同時にレコーディングしてもらって、ホーンセクションを入れ、2、3日かかって、ようやくレコーディングが終了したんだ。それからミキシングに2日間かけて行い、エンジニアのジンボをニューヨークからブラジルへ呼び出して作業してもらって、本当にすばらしいひと時を一緒にすごしたんだ。
当時1才だった僕の娘からも大きなインスピレーションを受けたところも取り入れている。
全体的には、アフロのバックグラウンドの上に、アーバン風ストリート音楽のような感じで、 ジャズの要素も入っている。僕自身ジャズすごく好きだからね。マイルス・デイビスは僕のアイドルのように思っている。
この中では、パンデイロのポジションを変えてみたり、シンプルなリズムで叩いている。 僕のアイディアは、事前にレコーディングしたパンデイロのリズムをベースにして、ベースプレイヤーを呼んできて、その上に乗せて、ホーン、キーボートプレイヤー、それぞれのミュージシャン達に僕の産み出した新しいパンデイロのサウンドとグルーヴを理解してもらいたかったのもあるんだ。 それにミキシングはすごく重要な事でもあった、ジンボはすごく良い音を作ってくれた。
制作してから何年か経つけどいまだに気にいっている。この作品は何年たっても残ると思うよ。レコーディングの結果には、すごく驚いているし、自分達の喜びでもある。
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●ブラジルで日本を代表するアーティストであるThe Boomの宮沢氏と出会い、どんな風にしてコラボレーションを展開していったんですか?
もともとMIYA(宮沢)とは、レニーニ&スザーノのコンサートで出会った。 その時我々のコンサートは毎回やる度に盛り上がって来て、3度目には完全に狂ったようにコンサートが盛り上がり、すごくヘビィなコンサートだったから、沢山の人たちが見に来たがっていた。本当に信じられないくらいのライブパフォーマンスだった。MIYA(宮沢)もそのライブに行ってきて、衝撃を受けていたようだった。それからMIYAが、僕のところにきて、いくつか曲があるんだけどと言って、お互いの交流が始まったんだ。MIYAが聴かせてくれた曲は、サルバド−ルで出会ったアーティストとの曲が3曲くらい、あと彼の曲で、メロディ、ハーモニーだけの曲が7曲くらいあった。殆どが構想中のアイディアのレベルだったけど、その段階では彼自身もまだプロジェクトのパートナーを探している途中だった。そこで僕はレニーニ
を誘う事を提案したんだ。それで大まかな道筋を決めて 僕は決心してキーボードプレイヤーのフェルナンド・モウラとアイディアレベルのものからアレンジメントを開始して、それからペドロ・ルイスを呼んで、パウロ・モウラを呼んで、レニーニを呼んで、この曲を聞かせたらすごく気に入ってくれたんだ。この曲の上にブラジリアンのリリックを書いて、この曲を持って日本に訪問してこのデモをMIYA(宮沢)に渡したら彼もすごく気に入ってくれて、その2ヶ月後、サルバドールで僕のバンドでクインテッド編成で、サンバタウンをプレイしたんだ。
その時、MIYA(宮沢)が、一緒にプレイしようといって、ツアーでのステージのアイディアを考えたりして、とにかくやろうという事になった。
それ以来、彼とは深くコラボレーションしてゆく関係になっていったんだ。MIYA(宮沢)は、すごく面白いミュージシャンで、彼は音楽に対してすごくオープンマインドで、彼はいつも僕にブラジルの音楽シーンについて色々と興味を示したり、常に音楽に対して、新鮮さや革新的な事を求めているように思えた。
僕が毎年日本へ来る様になってからは、音楽の情報量が増加していって、自分が 進んで行く方向が変化して行ったんだ。当時は、ゴールディとかが先導していた
ドラムンベースとか色々と聴いてすごく興奮したんだけど、あまりに狂気じみていた。 自分にとって、あのグルーヴは行き過ぎだと思ったから、自分の中のセットアップが完全に変わってしまった。
以来16thを基本としたリズムで、どうやったらあの160, 180BPMのグルーヴを再現出来るか色々と研究したんだ。色々なマテリアルを組み合わせたのをビルドアップして、ウッドを使ったり、スタンダードスティール、
メタル、ナイロン、そこにサンプラーを持ち込んで、いままでの既成概念が完全に変わってしまった。サンプラーを使う事によって、より自分の描いているイメージへ近付いていけるんだ。ツアーで旅する時にも、パンデイロとノートPCやサンプラーを持っていくだけで十分なんだ。これをつかってモジュレート出来るし、歪ませる事も出来るし、自分の音を沢山チェンジする事が出来るから、すごく役に立ってるよ。
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●マルコスとも交流の深いTOYONOさんより今回ご紹介していただきましたが、
現在日本のブラジリアンミュージックシーンで注目を集めている彼女に対して
何かメッセージをお願いします。
TOYONOは自分の音楽スタイルを徐々に開発しはじめてきていて、 すごく良い感じに成長してきていると思う。 彼女は音楽に関して、すごく良い耳をもっているから、もうすぐとても
良いリザルトが彼女に対して表れてくると思う。なぜならば、彼女は いつも才能あるミュージシャン達に囲まれてやっているし、 彼女はいつもオープンマインドだから、とても良いインスピレーションを受けている。
実際に彼女は既にすごく良い音楽を創作しているしね。 もうすぐ彼女自身が求め続けている、あたらしいスタイルが見つかって来ると 思う。それは完全なブラジリアンスタイルではなく、完全なジャパニーズスタイルでも無く、
インターナショナルでもなく、それはすごく難しいけど、彼女の内面に存在するもの。 彼女は明白に彼女が信じた正しい道をすすんでいると思う。 彼女は僕にとって愛らしい友達でもある。
彼女が僕のブラジルの家に来て、スタジオでプレイした時もなかなか良い感じだった。 これからも彼女らしい音楽を作り続けて行って欲しい。
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RECENT WORKS
●新作”ATARASHI”のリリース準備中だそうですが、アルバムのコンセプトについてお聞かせください
この作品は実験的な意味合いをもって制作したんだ。 DTMレコーディングソフトのプロツールの フィルターバンク(エフェクター)を使ったりして、
パーカッションにエフェクトを掛けてみた。サンプラーの持つ可能性を 最大限に活かしてエクスペリメントしたんだ。 例えば1つの音符をとってみても、本当に沢山の
音符へとトランスポート出来るし、それによってパーカッションのひとつひとつの 音がメロディのようになるんだ。このアルバムの中では、パーカッションしか使っていないんだ。というのは、まず生音を録音して、それからプロセスをかけ、そしてサンプル化して、音階をつけてメロディやハーモニーを作り、それでコンピュータ(マック)へ戻って、フィルターを調節して、
またマックへ戻ってといったような、2つのディレクションを行ったり来たりして作りあげてゆく。それは3ウエイのような感じでトライアングルのような関係性をもって、いったり来たりする中で思い掛けないグルーヴを創り出す事もある。
プロツールを使い初めて以来、制作がすごく面白いし、すごく可能性がひらけたような感じ。 ノンリニアレコーディング、エディティングによって、僕がそれぞれの音をスクリーン上で確認しながら作業が出来るってことは、なんか大きなクロッキー図の中で音楽を描いているような感じがする。
その後、このクロッキーをベースにして、ノンリニア上でそれぞれのパートにあるトラックを 組み換えたりして、これによってアレンジメントスタイルが次第に変わり始めた。
これはエレクトロニックミュージックからの影響を大きく受けた考え方だった。 現在エレクトロニックミュージックシーンの中で活躍しているケミカルブラザースや、
ファットボーイスリム、ビョークとかにも影響を受けた。彼らの作るサウンドがすごく 斬新で面白かった。それにヒップホップ、R&Bとかも大好きだよ。特にヘビィなやつね。
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● How does music make U feel?
すごくハッピーな気持ちになるよ。より自信が沸いて来る。 プレイする事によって、自分の持っている可能性をオープン発信させて くれる。それによって色んな情報を受信できる。
これからも沢山新しい音楽を創り続けてゆきたい。
[取材協力:TOYONO]
[Interview & Text by
jun ide]
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Marcos
Suzano
/ マルコス・スザーノ
マルコス・スザーノは、1963年リオ・デ・ジャネイロ生まれ。恵まれた音楽環境で、ジミ・ヘンドリックスやレッド・ツェッペリンなどロック・ミュージックに傾倒して育つが、14歳でサンバに魅了されパーカッションを始める。看板楽器であるパンデイロ(タンバリン)に専念したのは17歳からで、プロ活動の一方で師に就いてサンバやショーロを研究。MPB界の重鎮パウロ・モウラのバンドで活動するうち、現在に至るアフロ・ブラジルのコンセプトを押し進めるようになった。以来、数々の実験的演奏を続けると、ジョーン・バエズのレコーディングに参加し活動の幅を広げ、'93年にレニーニとのデュオ・アルバム『オーリョ・ジ・ペイシェ(魚眼)』を発表、続いて行なわれたワールド・ツアーによって、ブラジル音楽尖端の躍動を世界に伝えた。'96年に発表した初アルバム『サンバタウン』(MP.B/ラティーナ輸入発売元)が、「'97年ブラジル・ディスク大賞」の関係者投票で2位の座を獲得。今ではショーロ、ファンク、ロックなどブラジルのポップ・ミュージックに欠かせぬパーカッション奏者として、最大級の賛辞を集めている。'97年には、宮沢和史(ザ・ブーム)のアルバム『アフロシック』(東芝EMI)を、フェルナンド・モウラとパウリーニョ・モスカと共に全面支援、翌'98年3月、宮沢のソロ・ツアーもサポートした。その他、山下洋輔の『ストーン・フラワー』(ビクター)など、邦人トップ・クラスのアーティストとの共演作でも知られている。
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[取材協力:TOYONO
/ Interviewed & Text by Jun Ide]
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